2010/06/09

「待つ」という時間について

今日は京都芸術センターでAydanさんのワークショップを受けた後、造形大で夏のサミットに向けて制作会議。その後、稽古という一日。
芸術センターから造形大学に向かう途中、寺町通にて、梅雨を待ちきれず、咲き誇る紫陽花を発見。

そこで、この前読んだ鷲田清一氏の本に現代人は「待つ」事が出来なくなったという一説があったのを思い出した。

現代人は、手帳を予定でいっぱいにし、常に効率を優先し、携帯電話で時間を飛び越え、未来は今から「待つ」ものではなく、未来から逆算するように今を生きている。


今自分も様々な場面で「待ちきれない」でいる。常に前傾姿勢で悠長に「待って」などいられない。


「待つ」ということは単なるストレスとか、無駄であるように思えるが、実は「待つ」ということはとても豊かな時間であると、その本には記されていた。

日本語に雨の呼び名が多いように「待つ」にも沢山の呼び名がある。待ちわびる、待ち望む、待ち焦がれる、待ちぼうけ、待ちくたびれるなどなど。

踊りでも、特に即興で踊る場合などは特に、次の踊りが踊られるまで「待たなければならない」と感じるときがある。理由は分からない。ただそういう時間がある。

一体その判断はどこでなされているのか?その時間、体は何を「待って」いるのか?

そんな得体のしれない時間と対峙しながら、今自分は、良い踊りが踊られるその瞬間を「待って」いる。

もうすでにジリジリと「待ちきれない」でいるが、もう少し落ち着いて「待つこと」を味わってみようと思う。

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