2010/06/15

眠いとき、冴えてるとき

先週末から今日にかけて色々あったのですが、最近とにかく眠い!睡眠時間削ってるわけでもないのですが、食後とかすぐ寝てしまい、困ったもんです。
さて、先週末はAydanさんの公開稽古がありました。彼女の持っている問題意識みたいなものがうっすらと垣間見えた気がします。その問題にどうアプローチしていくかというところで、やはり作家の生きている環境とか、積み重ねてきた歴史や記憶、受容体験と言ったモノが深くかかわってくるようです。

言ってみれば問いのたて方とそのアプローチの仕方の組み合わせは無限にあります。
その中で何を選ぶかと考えてしまうと、途方もない。そんな状況でも作家は何かしら選択して、進んでいくわけですが、その選択を手助けするものが環境や歴史、記憶といった作家の受容体験であるとしたら、作品を共作するうえで、問題意識を共有するということは人間同士を知るということであって、そう簡単ではないんだなということを改めて感じました。

で、昨日は久しぶりに会う友人と、スタバで長ばなし。古くからの友人にはいつも「変わらない」といわれます。なんか嬉しいような淋しいような。本人はいろいろ変ったつもりではいるんですけどね・・・ この友人との付き合いも、かれこれ七年目ぐらいになります。なんでも話してきたように思いますが、大学を卒業して三年がたち、年に一度ぐらいしか会わなくなりました。
けれど、会ったとたんに以前と変わらない雰囲気が醸し出されて、久々な気が全然しません。何なら昨日も会ってたように会話が滑り出します。楽しい時間でした。

で、今日は梅田哲也展『デッドストック』に行ってきました。この人について全く知らずにただ『デッドストック』というタイトルに惹かれてふらっと訪れたのですが、かなり興味深いものでした。

会場に行くと案内係の人に「中は真っ暗ですので、しばらく目が慣れるまで動かないでください」と言われます。
段ボールで遮光された、たたみ10畳分くらいの二階建て吹きぬけの空間(これははいってしばらくしてわかる事ですが)は本当に真っ暗で、わずかにもの音がするだけ。

最初は何がなんだかよくわかりません。フライヤーには「廃材を使ったインスタレーション」とあったのですが、その廃材すら見えません。
しかししばらくすると、目が慣れて来るとともに、知覚が少しずつこの空間に働き始めます。
定期的に訪れるビー玉くらいの鉄球が床に落ちる音、細い鉄素材の何かと何かがわずかに触れ合う音。そしてたまに訪れる光。
それらが実際の感覚と、「見えない」という演出によって豊かになる想像力とをともなって、立ち現われてきます。
それれが、どれほどに計算されているのかはわかりませんが、とにかく知覚が揺さぶられる体験でした。この受容体験を誰かと共有するには「見に行って!」っていうしかないんやろな。

0 件のコメント:

コメントを投稿