メディアとは何か?と思い、辞書を引いてみたら、機関、方法、手段、媒介といった言葉の中の一つに、「適切な妥協点」とあった。このことに、すっかり納得しました。
つまり人はメディアを間に挟むことで他人との「適切な妥協点」を見出して、それをコミュニケーションと呼び、生活を築き上げている。ということです。
言葉も、音楽も、IT機器も、もちろんダンスも。メディアと呼びうるものは全て「適切な妥協点」であると。
そういってしまうと、なんだか悲しい気もしますが、逆に、妥協点という、ドライな響きに僕は安心感を持ちます。
それは、メディアを通して他者と「わかりあえる」というような幻想にとらわれなくて済むからです。
他者は「わかりあえない」からこそ「他者」なのであり、そのことは絶望ではなく希望だと思えます。
他人同士「わかりあえる」なんてことは、究極のところ無い。
それでも人と何かする時に、確かにあるのは「わかりあえない」というストレスと、「わかりあえた気がする」という実感です。ときにストレスも実感も、物事を動かす力になります。
「わかりあえない」ストレスも「わかりあえた気がする」実感も、方向は違えど、それぞれエネルギーを持っていて、どちらも物事を動かす起爆装置なのです。
エネルギー自体に正しい、正しくないはないのです。エネルギーの使い方に正しい正しくないはあるんだろうと思います。
今回僕たちはこのエネルギーをダンスという形にしました。メディアとダンスの違いは未だにわかりませんが、人と何かする時に、そこに確かに生まれるエネルギーの消費端末の違いみたいなものではないかとも思います。
メディアがダンスに奉仕するでもなく、ダンスがメディアに寄りかかるでもない、みたいな考え方ではなく、そもそも両者は同じであり、見えてくるものはそれらの「適切な妥協点」なのではないかと思います。それは決して悲観的ではなく、むしろ楽観的、あるいは建設的な希望を込めてそう思うのです。
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