コロナで人に直接会えなくなってから「時間」というものを改めて考えるようになった。
一日は24時間で、一年は365日。
世界には標準時間というものがあり、時差が存在する。
Zoomで同じ画面に写っていても「人は人と違う時間を生きている」。
が、どうだろうか。
量子力学的に言えば「時間」は存在しないとされ、コロナで会えない私達は、互いに認知できなければ、存在しないことになる。
私達が「存在する」ためには「互いに見合わなければならない」。
私達が認知するときのみ、私達は存在し「今」が存在するが、認知し合わなければ、あるのは「無」だという。
私達が「存在する」ためには「互いに見合わなければならない」。
私達が認知するときのみ、私達は存在し「今」が存在するが、認知し合わなければ、あるのは「無」だという。
どうだろうか。
コロナ以前から抱えていた問いの感覚が、コロナ以後のこの数カ月で更に鋭敏になった。
急に時間を持て余したり、長い時間待たなければならなかったり、かと思えば今までとは異なる時間の流れが押し寄せたり、今まで以上に急かされたり。
体内時計と世界標準時間の関係が崩れたと言ってもいい。
と、改めて問うてみたい。
大自然に囲まれた兵庫の山奥での時間感覚と、巨大なビルに囲まれた東京のそれとは大きく異なる。
更にここ四、五年で、世界中の異なる地域の人々とクリエーションを共にする機会が増えたことも、深く関係しているだろう。
明日の朝に届くよう、ウィーン宛のメールは前日の夕方には英訳、下書きしておくこと。
同じタイムゾーンに属しているとはいえ、韓国と日本の夕日は少し違って見えること。
二時間の時差があるとされているフィリピンのジョークは、日本でも笑えるということ。
更にコロナで一番身近な人との「時間」の変化も深く影響している。
奥さんと家にいる時間が増えたことで、いくつかの作品と、相当数のケンカと、強い絆が生まれた。更になぜか猫が我が家にやってきて、我が家の時間軸は三本になった。
寧ろ、猫の時間軸に、今や我々夫婦の「時間」はコントロールされていると言ってもよい。(猫好きの家は少なからず、皆そうであるように)
同じタイムゾーンに属しているとはいえ、韓国と日本の夕日は少し違って見えること。
二時間の時差があるとされているフィリピンのジョークは、日本でも笑えるということ。
奥さんと家にいる時間が増えたことで、いくつかの作品と、相当数のケンカと、強い絆が生まれた。更になぜか猫が我が家にやってきて、我が家の時間軸は三本になった。
寧ろ、猫の時間軸に、今や我々夫婦の「時間」はコントロールされていると言ってもよい。
そもそもダンスの振付や、舞台芸術というものは「時間芸術」とも言われており、上演時間を演出し、時間の概念を引き延ばしたり、縮めたりする仕事でもあるため、「時間」をどう構築するか?を考えることは、私たち舞台芸術に関わる人間にとって日常茶飯事なわけだが、そもそも「時間とは何か?」という問い立ては、それこそ"時間の無さ"にかまけて、スルーしがちな問いでもある。
未来の時間に向けて書類を作成する事。過去の日付の領収書を整理する事、時間を編集して、慣れない映像を作る事、過去の時間をお金で買う事。時差を考慮したクリエーションを行う事。あらゆることが「時間」という問いと紐付けられる。
丁度その頃、メンバーの一人が、私が彼らが帰国するときにプレゼントしたコーヒー豆(父が自家焙煎し、販売している)が切れたという、他愛もないグループチャットから、コロナ禍での皆の近況報告が始まったところころだった。
まず私が「時間」に関するテキストを書き、ダンサーに送る。
それを元にダンサーにいくつかの映像素材を撮影してもらう。
更に私のテキストを元に即興で踊ってもらった映像も送ってもらう。
次に二人のダンサー同士が、その映像を「見合って」、模倣した映像を撮影して送ってもらう。
最後にそれらの映像を私が編集する。
それを元にダンサーにいくつかの映像素材を撮影してもらう。
更に私のテキストを元に即興で踊ってもらった映像も送ってもらう。
次に二人のダンサー同士が、その映像を「見合って」、模倣した映像を撮影して送ってもらう。
最後にそれらの映像を私が編集する。
という行程を経て創作されたのが、この『Time 1』という習作である。
「1」と題したからには「2」、「3」と他のメンバーの習作も準備している。
この習作たちが今後、どのような展開を見せるのかは分からない。
何気ないコーヒーの話から始まったこのプロジェクトは先を急がない。
寧ろそこは、じっくり「時間」をかけて取り組んでいこうと考えている。
寧ろそこは、じっくり「時間」をかけて取り組んでいこうと考えている。
これもまた一つの「時間芸術」としてのダンスであると言ってみたいと思っている。
私よりもはるかに先に「時間」への感覚を研ぎ澄ませ、日々の感覚を記録し続けていた、私の奥さんであり、ダンサー・振付家の伊東歌織が立ち上げた、covid-19以降の感覚の変化について探る/振付家によるアーカイブプロジェクト
のサイトである。
彼女はこのコロナ禍での感覚を「まるで、一つ一つの時間が、水滴が零れ落ちるようにゆっくりと流れ、深い淵の底から世界を見つめているような気分」だったと語っており、さらに「私が私のために時間を過ごすことが許されたと感じた」と書いている。
ダンスや舞台をやっている人間は、一般的には「やりたいことをやれてうらやましい」と言われるが、舞台芸術に関わる人間ならば、わかるだろう。
「やりたいことだけでは生きていけない」ことを。
「私が私のために時間を過ごすことが許される」とはすなわち、如何に人は普段から「他人のために時間を奪われているか?」ということを浮き彫りにする。
そこには「時間芸術」に関わる三人のアーティストの、丁寧で繊細な感覚の軌跡が見て取れる。
サイト内で見られる映像作品『三つの窓ー세 창』は勿論、
全てのページのコンテンツを一つ一つをじっくり見ることをお勧めするが、 特にVideo Calendarのページの映像をすべてクリックして、同時に動画を再生した時の体験は「時間」のシャワーを浴びているような感覚を引き起こす。ぜひ体感してほしい。
このサイトは、通常運転に戻りつつある日本における「時間」について、あの時と何が変わって、何が変わっていないのかを、今一度考える機会を与えてくれる。
(サイトは日々更新しているので、定期的に訪れるのも良し、人にシェアするのも良し。ちなみにURL、https://odiodi-rhythm.com/の「odi」は韓国語で「어디(どこ)」を意味する)
これからコロナがどうなって行くのか、私達の「時間感覚」はどう変化して行くのか、正直先は読めない。
ただ私達がもし量子力学曰く「認知し合わなければ存在出来ない」としたら、他者を見つめるだけでなく、他者に見つめ返されなければならない。
この私のブログも、伊東歌織のサイトも、誰かに認知されなければ存在しないことになる。
と、されている。
が、どうだろうか?
自分自身の中にも他者が存在し、自分自身の中にも異なる「時間」が流れているとしたら。
私達がひとり、記憶を見つめる時、記憶は私達を見つめ返すだろうか?
私が脾臓に思いを馳せる時、脾臓は私を思うだろうか?
「時間」を問うことから、自己と他者を問うことへ。
コロナ禍とはいえ、私の創作の種は自粛するどころか、そこかしこに芽吹き始めている。