2012/10/11

コンテンポラリーダンス再考 2012年 夏~秋

 コンテンポラリーダンス再考 2012 夏~秋


 
京極朋彦ダンス企画主宰 京極朋彦

序文

 

20129月、私は北京にて行われた「美的采風 美のフィールドワーク2012 北京」という、日中国際ダンスワークショップ&シンポジウムフェスティバルに、日本からダンサー・振付家として参加させていただくこととなりました。

それに際し、出国前にあらかじめ、自身のコンテンポラリーダンスに対する考えを、まとめておこうと思いこの文章を書き始めました。

しかしながら北京に実際に行ってみて、また帰国後、私の考えは多くの貴重な経験を通して、更新されていったので、今改めてここに記したいと思います。

 

この文章はあくまで私個人の主観によってまとめられており、自身の今後の創作のための指標として書かれているものですが、この文章を、このような機会を与えてくれた皆様、並びに様々な経験、助言、機会を与えてくださった皆様への感謝に代えさせて頂きたいと思います。長文ではありますが、ご一読いただければ幸いです。

 

 

1 私が考えるコンテンポラリーダンスについて

 

私はコンテンポラリーダンスといわれる分野のダンスに関わるようになってまだ、かなり日が浅いですが、現在の日本でダンサー・振付家と名乗って活動するものとして、今の私から見た日本のコンテンポラリーダンスの現状を、私なりに考えてみたいと思います。

 

まず始めに、そもそも私がコンテンポラリーダンスという言葉を、どうとらえているかという話から始めたいと思います。

 

2000年代の日本で、この言葉を初めて知った私は、様々な文献や関係者の方々のお話を聞き、実際、最前線で活躍されているダンサー、振付家の作品に出演する中で、この言葉が意味するものをイメージしていきました。

この言葉の直訳は同時代(性)の舞踊と訳されますが、実際日本で使用されているこの言葉から受ける印象は、よく似た言葉、現代舞踊(モダンダンス)というものともすこしニュアンスが違うものであるということ。

さらに、どうやら、この言葉は作り手であるダンサー・振付家から出た言葉ではなく、どちらかと言えば批評家やプロデューサー、ダンス研究者といった、ダンスの作り手ではなく、その周辺で、何らかの形でダンスに関わる人々から出た言葉なのではないか?ということです。

実際作り手の中には、自分の作っているものはモダンダンスとも違うし、かといってコンテンポラリーダンスと呼ばれることに違和感を持っているという人もいます。そして、多くの、コンテンポラリーダンスを踊っているダンサーに「あなたはコンテンポラリーダンサーですか?」と尋ねても、「はい、そうです。」とすんなりと答えてくれる人は、なかなかいませんでした。

 

そもそも、ダンスのみならずコンテンポラリーという言葉は多くの芸術分野で使われ、それぞれの分野において、同時代性とは何か?という問いを内包しながら、その定義自体を常に更新、変化、発展していくという指向性を持った芸術分野として知られています。

 

それらの芸術と同じように、コンテンポラリーダンスには、決まった型、テクニックがあるわけではなく、その定義は、とても曖昧です。それはむしろ、常に答えようのない疑問の最前線に立ち、体を使って思考されること、その行為、そのものと言ってもよいかもしれません。ただそれ自体、コンテンポラリーダンスの一つの特徴を指すことにとどまり、全てを網羅できるわけではないようです。

 

こうなってくると、私自身も自分が作っているダンスが、コンテンポラリーダンスであるか否か、一体なんなのか?ということを、断言できる気がしません。

そしてむしろ、批評家でもなければ、ダンス研究者でもない。ましてや歴史家でもない私は、実はコンテンポラリーダンスという言葉の定義を定めることに、あまり興味はありません。

 

私自身のやっていることを、大きな意味での芸術活動としてとらえるならば、私は、コンテンポラリーダンスが何を意味するかということよりもむしろ、良くも悪くも、既に流通しているこの言葉を、どう意識し、芸術家として、どのような作品を作っていくか?ということに興味があります。

 

コンテンポラリーダンスという言葉は作り手から出た言葉ではないといいました。それはこの言葉を定義するのは、作り手ではなく、作られたものを見る人々の仕事であると感じるからです。

かといって作品創作において、このコンテンポラリーダンスという言葉を完全に無視することはできません。

「コンテンポラリーダンスかどうかなんて、意識してません」といって作品を作ることもできるでしょう。しかしそう発言すること自体、既にコンテンポラリーダンスを意識することになります。これはコンテンポラリーダンスに限らず、既存の事実や、言葉の成り立ち、歴史や文脈をどう意識し、思考の範疇に入れるかによって、作品の持つ意味は大きく変わっていくということと同じことです。

ただ単に知らないということが、作品の弱さになることもあるし、強みになることもあります。

ともあれ、既にこの言葉を知り、その歴史や文脈を知っているものにとっては、知ってしまったそれに対して、どのような意識を持つか?どのようなカードを切るか?そこに一つの姿勢が問われることは確かです。

 

海外から輸入されてきたダンスの歴史を、おおざっぱに紐解けば、二次大戦後GHQの指導下のもと、日本にバレエが輸入されました。輸入したものを独自に発展させるのは日本のお家芸ですから。バレエは日本にも根付き、やがてそれに続き、モダンダンスが日本に輸入され、アメリカのポストモダンダンスという概念も輸入されていきます。

そして60年代になると、それらのダンスへのカウンターとして、舞踏というものが生まれ始めます。

このころから日本ではバレエからモダンダンス、ポストモダンダンスといった世界の潮流とは微妙に異なる形で様々なダンスが生まれ、日本のダンスは多様化していったと言われています。

 

そして80年代半ば。既に多様化していた日本のダンスの文脈に、コンテンポラリーダンスという言葉が輸入されることで、多様化はさらに進んでいくことになるのです。

 

しかし私はこの言葉の輸入がもたらしたものは、単なる多様性の促進と受容だけではないと考えます。

むしろこの言葉は、今まで最新のダンスとして輸入されてきたバレエ、モダンダンスという言葉とは違い、コンテンポラリーダンスは既にオリジナルに育ち始めた日本のダンスの文脈との間に微妙な摩擦を生み出したのではないかと、私は考えます。

 

この言葉は、多様性の促進と受容という側面をもちながら、その反面、当時、日本で独自に発展しつつあった、舞踏や、そのほかの名づけえぬ表現を「名づけ」、ある種の全体化に一役買ったのではないか?その「名づけ」あるいは「あてはめ」は、それら名づけえぬ表現との摩擦を生み出していったのではないか?と考えます。

 

つまり、当時あった、何ともよくわからない、しかし確かにそこにある、作家たちの表現を総合的に名づける便利なキャッチコピーとしてコンテンポラリーダンスは重宝され、人々の知るところとなった。当時の作り手も自分のやっていることに外来語があてはめられて驚いた。それが今日のコンテンポラリーダンサーが、コンテンポラリーダンサーと名乗ることへの躊躇の原因となっているような気もします。

 

しかしながらそれが悪いことだったとは思いません。この「名づけ」は、それらの名づけえぬ得体のしれないモノを商品化し、その間口を広げることに大いに貢献しましたし、その多様性の享受のおかげで、僕のような踊りなどやったこともなかった者がコンテンポラリーダンスの名のもとにダンスをやるようになったというのも事実です。

そして私は、このことに端を発し、理路整然と整理されないない内情を抱え、曖昧さを抱えたまま発展した日本のコンテンポラリーダンスの多様性に、可能性を感じています。

むしろ今の今までそれを引きずったままでいることは日本のコンテンポラリーダンスの一つの特徴、あるいは武器になっているのではないかと考えるからです。

 

コンテンポラリーダンスという言葉がまだ馴染みのないころの作家たちの表現は、まだ形態のない、彼らの切実な、名づけえない「何か」であって、むしろコンテンポラリーダンスという外来用語との少しの摩擦、ズレ、あるいは違和感の中で、それを火種に、あるいは咀嚼して今日まで発展、継続していったのではないか?というのが私の推論です。

 

彼らの「名づけえない」表現は、コンテンポラリーダンスという「名づけ」があったからこそ、それらから意識的に距離を保ち、その言葉に回収されまいとしてきた結果、大文字の言葉に左右されることなく、時代の淘汰を潜り抜け、風化に耐え、今もなお継続していくことができたのではないかと。

 

そんな輸入の摩擦を火種に、そしてその表現の切実さを燃料に、継続していったコンテンポラリーダンスはバブルが崩壊しても、経済不況で、芸術活動全般が政治経済に追いやられ、予算も真っ先に切られる厳しい局面を迎えても、その火を消すことなく続いていきました。

 

このことは私たちに勇気を与えてくれます。その時代に生きるものが、経済や、社会に振り回されることなく自分の切実さに正直に作り出すものは、如何に名づけられようが、それをすり抜けて、風化に耐えるということを教えてくれます。

 

そして、その切実な表現は確実に人の心を動かし、それを愛する人々によって支えられ、消えることなく今も作品は生まれ続けています。

コンテンポラリーダンスとは、時代の「名づけ」の半歩先へすり抜けていこうとする意志そのものなのかもしれません。

コンテンポラリーダンスという言葉について私が考えることは、以上です。

 

何度も言いますが、コンテンポラリーダンスという言葉が良いとか悪いとかということは問題でなく、大切なのはここから、私たちは何を創造していけるかということです。

 

それはちょうど、本のしおり、あるいはコンパスの針のような定点であり、そこを基準にすること。何もない空間に一つの点を打つことで、そこから何を考えることができるかという指標でもあるのです。

 

私は歴史家でも批評家でもない、ダンサーであり、振付家です。作り手の立場にとっていつの時代も大事なのは、常に自分の表現を内省し、自覚することです。

決めた定点をどれだけ自覚できるかということと、この定点から何を思考することができるかということ。それは表現者が経済や、社会に振り回されることのない、自身の言葉を持つことに等しいと考えます。

 

2 今現在の日本とこれからの創作について

 

さて、なぜ私が、かくも偉そうに、このようなことを延々と語り、なぜそこまで執拗に書き記すかと言えば、今まさに私たちは、自らの定点を揺るがされるような局面を迎えているからです。

去年3月に起きた震災と、それに伴う原発事故、震災後の日本政府の対応、マスコミの報道などを含めた一連の出来事によって、私たちの価値観は大きく変動しました。

 

おおざっぱに言ってしまえば今まで信頼していた、あるいは意識さえせず当たり前に享受していた現実が、いつ、なんどき崩れ去ってしまうかわからない。むしろ今まで私たちは何を信じて生きてきて、これから先何を頼りに生きていけばよいのかという不安を誰もが持たざるを得なくなりました。

 

これまで多くの天災、事件、事故、二度の世界大戦を経験してきた日本ですが、これほどまでに未来についての不安が表面化し、広まったことはなかったのではないでしょうか?

この災害の傷跡は一時的なものではなく、これからの未来に大きな爪痕を残すことになったということも、今まで日本が経験してきた天災や事件とは異なる側面です。

 

私はこの震災と原発事故で、普段から持っている問題意識、つまりは踊るということは何なのか、それが私たちの人生に何をもたらすのかについて問う、その問いの立て方から、問いたださなければならなくなったと感じました。そしてコンテンポラリーダンスという定点はおろか、生活そのものの定点を考え直さなければならなくなった気がしています。

 

それは振付家、ダンサーである以前に、一人の人間として、どう生きるかという辛辣な問いを突き付けられることでした。

 

震災で家を流され、多くの人が死に、原発事故で放射能が全国に拡散していく中、踊りなど踊っている場合だろうか?ほかに自分にできることがあり、それをすべきなのではないか?という葛藤と経済や、社会、マスコミに対する不信感から、震災後、しばらくは何もする気が起きませんでした。

 

やがて今回の震災によって、今までとは比べ物にならないレベルで、生きること、作品を作ることの意味を問われ、自身の存在意義に揺さぶりをかけられているという現状を冷静に把握し、そこからはもう誰も逃れることはできず、そこから私たちは新しい定点を打たなければ何も始まらないのだという考えが浮かんでからやっと、自分にはいったい何ができるのか?を具体的に考え始めることができました。

 

あまりに悲惨な現実を受け入れるには時間がいるし、実際被害にあった方々は一生涯、受け入れることはできないかもしれない。

かといって自分は被災していないから何も言えないというような、被災コンプレックスに陥ることには何の意味もなく、行動できるものからいち早く行動すべきだと思いました。

 

そこで勇気をくれたのは、先に述べたコンテンポラリーダンスと名付けられる以前の、作家たち、先輩方の姿でした。

何にも寄りかからず、自らの言葉を獲得していく姿勢を貫き、時代の風化に耐えてきたダンサー・振付家たちが今なお活動し、さらには震災後いち早く行動に出た。彼らは常に移り変わる世の中に踊りを発信していて、その都度、ぶつかり、転げながらも立ち上がるという戦いにも似た行為を繰り返していました。

ある意味で常に戦っているものにとって、戦場はどこでも、戦うことの厳しさは変わらないのでしょうか?その姿、その背中を見て、私は立ち上がらずにはいられないのでした。

 

作品と呼ばれるものを作り始めて間もない日本の若手の振付家たちは現在、このような大きな、そして根源的な問いを突き付けられながら、ある意味特殊な、厳しい状況の中で作品を生み出しています。そしてそれ以前には、短いながらも日本独自のコンテンポラリーダンスと呼ばれる分野に貢献してきた人々の歴史があり、それらに励まされながら作品を作っていこうとしています。これらのことを無視して現在の日本のダンスの現状は語れません。

 

そして私は今の現状を悲観的にはとらえてはいません。現状を根本から問い直すということは、一度更地に戻ったところから、何を作り出せるのか?という希望でもあるのです。

この状況を私はむしろ新しいものを生み出す可能性がある状況であると考えたいと思っています。

この辛辣な現実、現状を超えていく力のないものは、やがて淘汰され、新しい可能性を切り開いていったものだけが次の世代につながっていく。これは今までの歴史上で起きてきたことと、なんら変わらないのですから。

 

むしろ今までの価値観とは異なる文脈でダンスは続いていくのかもしれません。風化とか、淘汰とか、稼げる、稼げないとか、そういった価値基準自体、変化していくことになると思うのです。その中からコンテンポラリーダンスに代わる新しい言葉が生まれるかもしれないし、その瞬間、そこからはみ出すことを目指す表現が生まれ、歴史は繰り返す。そう信じたいと思っています。

 

今私たちは既にあるこのコンテンポラリーダンスという定点から、新たな創造という線を描き出さなければならないと思うのです。

 

 

3 ダンサーが切り開くダンスの未来

 

さて、ここからは、そのような現状の中で私が具体的に何を考え、何を実行したかについて記そうと思います。

震災以後の価値観の変動に伴い、私はどのようなダンス作品を作るかではなく、そもそもどのような環境で作品を作るか?ということから考え直す必要があると感じました。

 

作品とはどのような環境で創作されるかに大きく左右され、むしろその環境について考えるところから創作活動は始まっていると考えられます。ちょうどコンテンポラリーダンスという言葉をどう意識するか?ということが作品の内容を左右するように。

 

しかし私がその時考えていたことは、作品の内容を左右する環境についてというよりも、この厳しい現実を前に、作品創作を継続していく環境についてでした。

 

主にソロダンス作品を創作してきた私は、まず始めに、ダンスを継続する環境づくりとして、ダンスカンパニーを立ち上げました。もちろん自身のダンス創作の可能性を広げるためという意味もありましたが、何よりも他者同士の異なる価値観をぶつけ合うコミュニティーを作ることが、継続的な活動のために必要不可欠なことだと感じたからです。

さらにより大人数の価値観和ぶつけ合うために、コミュニティー同士が集まる場を設けること、作家同士のネットワークを作る必要性も感じました。

 

そこで振付家を複数立てて同時に作品を発表しあうショーケース企画を立ち上げることを始めました。

この企画において、若手作家が自身のカンパニーだけでなく、他の作家と、作品で語り合い、互いに互いの質を問いあう緊張関係を保つことで新しい価値観、新しいダンスの現状を獲得していくことを目的としています。さらにはこの企画を定例化していくことで、それぞれがダンスを継続し、全国に作品を発表していくためのプラットフォームとしての役割も果たすのではないかとも考えました。

 

実際今年の夏、京都で第一回公演が行われました。まだ一回目ということで、自身のカンパニー作品を作ることで精いっぱいで他三組の振付家と密に話ができなかったというのが現状です。正直まだ作家同士の関係は交流レベルにとどまり、互いの問題意識の共有や、対話というところまではいきませんでした。

 

しかし私自身やってみて多くの収穫があったことは確かです。

この企画を終えて私が考えたことは、今やダンサーはダンスだけ踊って、ダンサーの顔をしていればいいという時代は終わり、いかにして自分の思うダンスを継続的に続けていくかを、ダンサー個人が、今までとは比べ物にならないレベルで考えなければならない時代になったということでした。

 

そして自身の活動を客観的に見てくれる他者、支えてくれる他者とのネットワークを如何に作れるかということが、今まで以上に重要であり、それをダンサーが個人レベルで意識していかないとならないということです。

 

この点は大いに重要であり、ダンサー発信で物事が進んでいくことは、ダンサー自身が言葉を獲得していくことであり、自分自身が定点となることを意味しています。

ダンスの未来は助成企業でもプロデューサーでもなく、ダンサー、振付家といった作り手一人一人が切り開いてゆくものであり、その意識を共有できる集団が必要だと考えます。

 

そして私たちは今まで以上に多くのことを、ダンス以外からも学ばなければなりません。政治、経済、社会、マスコミが悪いと、野次を飛ばすのは簡単です。大事なのは、むしろそれらから何を学び、実践するかです。どこで踊るか?どう踊りを継続していくかを考えるにあたって最近では、風営法に関しても学ばなければなりません。

 

市場経済や、マスコミによる「名づけ」に回収されずに、自身の言葉と表現を獲得していくためには、ダンスに固執することのない知識と、異なる分野、異なる人種、異なる世界に飛び込んでゆく勇気が、リーダーだけに必要なのではなく、ダンサー、一人一人に必要なのです。

それがこらからのダンサーの、あるいはダンスの未来を作ると考えます。

 

 

4 北京での印象とコンテンポラリー(同時代性)について

 

この自身のプロデュース企画を終えたタイミングで、私は北京に一週間行く機会に恵まれました。この北京での経験は予想以上に豊かなもので、まさに異なる世界に飛び込んでゆく経験でした。ここにその印象をまとめたいと思います。

 

今回の北京滞在では日本、中国、香港、台湾などの振付家、ダンス関係者が集まり、ワークショップやシンポジウム、公演発表を行うというもので、一般の北京市民もたくさんワークショップに参加しました。

 

私はそこでワークショップとその小発表、シンポジウムの参加、自身のソロダンスの公演という実践的経験もさることながら、各国の振付家のワークショップを受け、作品を鑑賞することができました。中でも北京の若手振付家の作品を毎晩二組ほど見ることができ、本当に良い経験をさせていただきました。

 

その中で一番強く感じたことはやはり、コンテンポラリーダンスという言葉は国や文化によって全く定義が異なるということ。先に述べたように、日本でさえこの定義は曖昧なものですから当然のことですが、それを今回、肌で感じることができました。

中国におけるコンテンポラリーダンスは世界的に見られる、モダンダンスに近いものが多くを占めているようです。そのほかは舞踏に感化されたような作品やパフォーマンス的なものが多く見られました。

 

日本におけるコンテンポラリーダンスと呼ばれるものに近いものは若手振付家の中にわずかに見られましたが、なかなか強度のある作品は見られませんでした。(強度という価値基準もまた、私の個人的な価値観でしかありませんが)

 

その中でもひときわ私にとって印象深かったのはSHI JING XINさんによる振付作品でした。

彼女の作品は中国の伝統衣装を身にまとった女性三人の作品で、構成や音の使い方、振付のバリエーションにはいささか単調さを感じましたが、ダンサーの体、動きに強度があり、なめらかで美しく、時に力強く、日本の若手ダンスカンパニーでこれほどまでの強い体をそろえたカンパニーはないと感じました。

 

さらに彼女のワークショップを受けたり、話したりするうちに彼女自身が如何に戦略的に作品を作り、活動しているかということよくわかりました。中国の伝統衣装や仮面といったオリエンタリズムを誘発させるようなアイテムを意識的、自覚的に武器として使い、独自のスタイルを確立してゆこうとするその姿勢に強く感銘を受けました。

 

また、日本の舞踏家、和栗由紀夫さんのワークショップを受け、北京で初めての舞踏カンパニーを立ち上げた、YU FANG DUさんと知り合い、彼女の作品も見ることができました。

 

まだ舞踏を始めたばかりで、すぐに仲間を集めてカンパニーを作ったという彼女の情熱は作品の中にもあふれていて、舞踏だのコンテンポラリーだの関係なく、根源的な衝動に突き動かされる体がとても魅力的でした。

 

中国は発展途上国だとか、日本のまねばかりしているだとか言われますが、実際に行ってみて、中国のダンサーたちとダンスを通して知り合い、互いの表現を見つめあってわかることは、彼らは、中国におけるコンテンポラリーダンスという定点を自覚的にとらえ、今まさに点から線を描き出しはじめているところであるということ。

その線の長さは、まだないかもしれませんが、まっすぐに書き始めた線の誠実さは、確かのものであり、果たしてそれが、いまの日本にあるか?と自問するほどの力強さを持っていました。

 

尖閣諸島の問題が激化する直前のタイミングで実現したこの企画は、中国の生の現状を一部ではありますが知ることができ、私自身の意識を大きく変える、本当に貴重な体験でした。

そしていつの日か、彼らの描き出した線と、私たちが描き出した線が結ばれるとき、はじめて“同時代性”(コンテンポラリー)という言葉が意味を持つような気がしました。

 

 

4 思考と継続について

 

さて、ここまで「こうでなければ日本のコンテンポラリーダンスの未来はない」というような硬質な文章を書いてきましたが、ここで大きな矛盾が私の中で生まれています。

 

なぜなら今回の北京での経験や、今までダンスを通じて様々な人々の価値観と、その人生を学んでいく中で、当たり前のように感じるのは、答えは一つではなく、人の数だけ答えがあるということ。

その人の生まれ育った環境、文化によって、そしてインターネットによってグローバル化された現代社会には多種多様のその人にとっての“同時代性”(コンテンポラリー)が存在します。

まずこの世界に生きる一員として、そのことを認めなければなりません。私の考えも一個人の意見にすぎません。

そのうえで私たちは、世界中の価値観、文化を意識の範疇に入れながら、その問いの立て方自体をシフトし、更新していく必要があるのです。

 

自身の考えるコンテンポラリーという言葉で、多種多様なものを一元的に、固定的に考えるのではなく、あくまで一つの基準、定点ととらえ、バラバラなことをバラバラに認め合った上で、さらに刻一刻と変化する状況に伴い、その定点と問いをアップグレードしながら、一体何ができるか流動的に考えることが重要です。

それはひどく不確かで曖昧な、厄介で根気のいる、終わりの見えない作業のように思われます。そして、そもそもこの作業には終わりはなく、常に始まりだけがあるのだとも思えます。

この終わりなき作業は世界中で無数に同時進行しています。この作業を連携し、複数に分業し、世代を超えて継続することを通して、それに関わった者同士、互いを知ることができたら、それは単なる作業ではなく、少しずつ状況を変える運動になるかもしれない。

 

それは芸術というものの一つの効力であり、そんなわずかな希望を芸術に託さないでいったい何に託すことができるでしょうか?

 

そんなことを考えさせられたのがダンストリエンナーレトーキョー2012で見たイスラエルの振付家、アルカディ・ザイデスさんの振付作品『Quiet』でした。

この作品については前々からその概要は聞いていたものの、今回初めて生で見ることができました。

この作品は、今なお対立し続けているユダヤ人とアラブ人の役者、ダンサーによって共同で制作されたという稀有な作品で、2009年に初演されたものです。

 

私はこの作品を見て、先に述べた終わりなき作業を芸術に託した作品であると感じました。そして、切実な表現はコンテンポラリーダンスという言葉そのものを超えると思いました。

生の体を前にして、言葉は単なる言葉であり、目の前のダンサーと出会ってしまうこと、その情報の圧力を前に、ジャンルのカテゴライズなど無意味だと、改めて思わされました。

 

そこではユダヤ人もアラブ人も、一人一人がその場に切実に立ち、時に、子供のように遊び、戯れながら、同じ「体」を持つものとして歩み寄り、ユーモアと対立、歓喜と暴力を抽象的に含みながら、他者と向かいあう姿が見られました。

その強度はやはり作家の切実さと、国や人種を超えていく共同作業、ネットワークのたまものであると感じました。

 

三人寄れば文殊の知恵と言いますが、今や、たった一人の思い付きが、ネットワークを通じて多くの人々と連携、協力し、大きな波のように時代の価値観を変えていくことが可能な時代です。かといってそれで世界がすぐに平和になるわけではない。

しかし作品作りにおいて、その連携の可能性を意識しているか、単に知らないかによって作品は大きく変わります。もちろんそれを知った上でやらないことと、知らないことは区別されます。

 

そのことをそれぞれが個人レベルで意識できるか?それが今後、ダンサー・振付家のみならず、全ての人に必要なことなのかもしれません。

この作品を作ったからと言ってすぐに争いがなくなることはないでしょう。しかしそれは継続の始まりであり、一つの定点を打つことに成功していると感じました。

 

 

5 何を定点とし、どこへ向かうのか

 

さて、これから日本のダンサー・振付家は、より一層厳しい現実の中を生きていかねばなりません。自動的にダンスをやめてしまう人もいるでしょう。

 

しかし、もともとコンテンポラリーダンスの定義というものは曖昧です。私のような寄る辺ない若者が、このコンテンポラリーダンスという曖昧で多種多様な表現が許される場所に、救われたのも事実です。

ダンスの道は一本ではありません。子供を産んで、その子にダンスを教えることも、一つの道であり、それを決めるのは個人です。

東京が最先端であるという概念を捨てて、地方に拠点を移す人がいます。日本では受け入れられないと悟り、海外で大いに歓迎されている人たちがいます。

ネットワークが発展し、海外との交流が容易になった今、ダンスの価値観も大きく変動しています。

 

そんな現状の中、それでもなお満足できない、おさまりきらないという衝動が、また次のダンスを作っていくこともあるでしょう。それはおそらくそうしなければ生きていけないような切実さをもってして生まれてくるものであり、その切実さは、なんと名づけられようが、その先へダンスの可能性を切り開いていくことでしょう。

それは現時点ではダンスとみなされない代物かもしれない。しかしそれの中に、ダンスを感じる人が現れ、世界的にそれがダンスだという認識が広まれば、それはダンスになっていくのです。

 

今、ダンスだと認識されているものを理解し、その範囲の中で生きる道を探すこともできれば、まったくダンスと認知されていない世界に飛び込み、新しいダンスを探していくこともできる。ダンサー・振付家という職業にはそんな自由が許されています。そしてそれゆえの厳しさも大いにあるのです。

 

これから、コンテンポラリーダンスという分野はどこに向かっていくのか?

私たちダンサー・振付家という職業にはコンテンポラリーダンスという言葉と同じように定義はなく、もちろんライセンスもなければ保証もありません。

ちょうどそれは優しくもあり、厳しくもある自由の海にさらされながら、寄る辺なく漂流する筏にのっているようなものです。コンテンポラリーダンスという言葉も同じことです。

 

日々移り変わる価値観の嵐を前に、自らの行く先を選ぶのは難しい。大きな潮の流れに身を任すことに飽き足らなくなったものは、自分の小さな櫂で、荒波にもまれに行くことでしょう。

どの港に着いたっていい。知らぬうちに漂流した先が、気に入ってそこに住んだっていい。しかし、一人の人生が終わっても、人類の終わりなき作業は、続きます。

 

重要なのは、航海の行く先ではなく、その過程で手に入れた、その一本の櫂だと思います。それはその櫂が、たとえ航海をやめて、陸に上がったとしても、そこからの行く先を決め、さらには次の世代の航海の道しるべになると思うからです。

 

日々移り変わる世界の中で、自分にとって切実なものをめざし、何を自分の定点とし、どこへ向かうのか?それを常に、その都度、決めること。その一つ一つの判断がコンテンポラリーダンスの未来を決めていきます。

そのためには体の訓練はもちろん、心と感覚の訓練が必要です。私たちはどんな状況でも、吸収する柔軟性と、自分の言葉を持ち、見失わない賢さを持たなくてはなりません。

 

そして私はダンサー・振付家として、そのような判断の積み重ねをし、新たなる歴史を作り、やがて来る次の世代の人々が勇気づけられるようなダンスを作っていけたらと思っています。

ちょうど私がコンテンポラリーダンスという言葉と、それに携わる人々の姿に救われ、勇気をもらったように。

 
 201210月11日 京極朋彦

 

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