また来年もこの企画は続行します。今年見逃した方は、この劇評をお読みの上、京極朋彦ダンス企画、そして来年のKYOTO DANCE CREATIONに、ぜひご期待ください!
魅力的な四人の振付家
門 行人
四人の若手振付家が作品を発表したKYOTO DANCE CREATIONは、今回を嚆矢とする試み。似た企画としては、東京のdie pratzeが主催する「ダンスが見たい」の新人シリーズがある。同シリーズでは、十日以上にわたり、各日三~四組が作品を上演する。観客にとっては未知のダンサーを、ダンサーにとっては新しい観客を発見する重要な機会だ。京都でもこういう企画が実現した意義は小さくない。ただ、「ダンスが見たい」は劇場の主催だが、こちらは京極朋彦の個人企画だ。単発企画に終わってはもったいないので、もっと個人に負担がかからない形で継続されていくことを望む。
「ダンスが見たい」とはもう一つ大きな違いがある。「ダンスが見たい」新人シリーズは出演団体が自ら応募するコンペティションなので、ある程度の予備審査はあるものの基本的には玉石混淆。自分に合うダンスを見つけようとする観客には砂金掘りのような根気が要求される。その点今回の企画では京極が自身の裁量で出演団体を選定しているため、ある程度の質は保証されている。私も出演者の顔触れを見て立ち寄ることを決めた一人である。そして期待は十分に報いられた。
最初の高田麻里子『Trip>>>』は、横を向いた三人の女性ダンサーが横一線に並んだところから始まる。斉一的な動きから徐々にずれが生じるあたりで、背格好がずいぶんよく似ているなと気になり始め、やがて「これは三つ子なのではないか」という疑念に変わる。それを裏付けるように、うつ伏せになった一人に他の二人が重なってのそのそ動く箇所では、重なる順番を変えて同じ動きが繰り返される。それはまるで「三つ子は交換可能だ」「いや逆だ。交換可能だからこそ三つ子なのだ」などと人格無視の言明をなすがごとくであり(もちろんそんなことはないのだろうが)、観客が自明のものと思っていたアイデンティティの概念をそのように軽く震わせながら進行する点におもしろみがある。個別の動きにあまり特徴がないのが弱点だが、そのわりにスムースに構成されており、今後に期待をつなぐに足る。
二番目はV.A.netの『明日のこと』。坂本公成が主宰するハイレベルな集団、モノクロームサーカスに所属する野村香子が作った、野村と男性二人の作品だ。バスケットボールをドリブルする男が別の男とボールの取り合いをする情景を想像し、そのボールを一人の女に置き換えてみてほしい。それがこの作品の中心的な場面だ。一人が野村の手を取って誘導する。もう一人が野村の手を取ると所有権はそちらに移動し、元の一人は手を離さねばならない。そのため、ライバルが野村の手を取れないように、間に位置を占めるなどの妨害が行われる。ただし走って逃げたり、乱暴な挙に出たりすることは許されない。表面上はスッスッと優雅に歩きながら虚々実々の駆け引きが繰り広げられる、そのさまをダンスとして見せようというのである。
ダンスをただの運動から分かつのが何かについてはさまざまな考え方があろうが、動きが“気配”をたたえているかどうか、というのも一つの基準だろう。そうした意味では、縦横に動き回る三人の間にはフェイントも含めあらゆる気配が高速で生成消滅し、スリリングなことこの上ない。それがこの作品の魅力の中核である。それはたしかだ。だがそれに加え、そうした外形的な計画より上位や下位のレベルにも気配が生じる点にこの作品のユニークさがある。
そもそも女をバスケットボールのような奪い合いの対象としてオブジェクト視すること自体が、フェミニズム的にとんでもないことであるのは言を俟たない。男性の振付家にはあまりにも危険な企てである。この場合は振付家が女性であることでそうした非難を冷笑ぎみにいなせるわけだが、それだけではない。手を引かれておとなしく誘導に身をまかせているかに見えるこの女性は、実は気づかれない程度にもう一人の方に手をさしのべ、自らの奪取を誘うのである。操作されるオブジェクトどころか、実はこの女性の方が男二人を手のひらの上で踊らせていることになる。なんという逆転!ふだん男の目には隠されている女性的な戦略性(ひらたく言えば「女のズルさ」)が、ここでは男の目にも見える形となって現前するわけである。
しかも、さらにそうした戦略性が尽きる地点をもこの女性作家は作り込んでいる。ゲームの進展とともに、触れてよいのが最初は腕だけだったのが、肩まで、ウエストも可、とだんだん広がっていく。そうすると、男が女の体軸に近い、鎖骨の下あたりを押すことで急激な姿勢変化を企図することも出てくるが、野村はやせぎすのダンサーと言うよりは人並みに女性的な体を持っているので、急速な運動の中、手が胸に触れそうになることもある。もちろん意図的ではないので男も野村も特に気にしないのだが、一瞬の数分の一の間、男に制動が、野村に身構えが生じるのが見える。これはルールや企み以前の、それぞれの個人の生の反応である。ウエストに手を回すときにも、別種の、だが同次元の反応(または無反応)が生じる。
このように、さまざまなレベルでさまざまな“気配”の発火が継起的に生じるのがこの作品の魅力である。完結した作品と言うよりは一場の実験と言うべきだろうが、重要な成果には違いない。
三番目は佐藤健大郎×森川弘和の『conductor』。佐藤はヤザキタケシ&アローダンスコミュニケーションに、森川はモノクロームサーカスに所属したことがあるが、今はともにフリー。森川は関東の観客にももうおなじみだ。今回の作品は佐藤の振付。キャリアのある二人だけに、単なる自分の動きの探究にとどまらず、相手に自分から動きを引き出してもらうことを通じて外部の視点を導入しようとしている。それは、互いに相手の腕を持って動かすといった即物的なレベルから、相手の間合いに追随するといった抽象的なレベルにまでおよぶ。
特徴的なのは、二人で顔を合わせて話していて、突然やめて客席に顔を向ける場面に顕著なように、常に第三者の存在が意識されていることだ。その結果、客観的に鑑賞できる、完成度の高いダンスになっていた。小さなぬいぐるみがテニスボールを出産する様子をライブ撮影して映写するなど意味不明な要素もあったが、優れたダンサーの踊りを楽しむ妨げにはならなかった。
最後が京極朋彦ダンス企画。ソロ中心に活動してきた京極は、鍛え上げられて極度に体脂肪の少ない体にどのような動きを与えるべきかを探るような、ストイックな踊りをする人という印象があったが、この作品では、女性二人、男性一人の助けを借りることにより、自由度を広げることに成功している。
「語る」ことには当然、言語が用いられるが、発声という動作が持つ、言語以前の物理的、運動的な側面もすでに何かを伝えている ―― 当日パンフレットの抽象的な解題を読むと、『talking about it』というタイトルはどうもそういう意味のようだ。
そのような発想はたとえば初期のニブロールの、指をさすしぐさにもあった。普通、指をさすのは何かを(文字通り)指示するためだが、ニブロールのダンサーはでたらめにあちこちをさした後、その指を引き戻して眺めたりする。それはちょうど、指さすことを覚えたての子供が、指さすしぐさそのものを不思議がっているかのようであった。
もっとも指をさすしぐさは、物理的運動と社会的意味付けの二層にきれいに分解できるのに対し、発声の場合はニュアンス、声量などさまざまな変数が絡んできて、それぞれの階層で意味の伝達がある程度は可能なので、事態ははるかに複雑である。京極はその複雑な事態をきれいに腑分けして示すのではなく、混然一体とした実例として提示することを選択した。
と言っても、やっているのは、ダンサーが動いている横にインストラクター然とした京極が出てきて、世の中に存在しないデタラメな言語で客席に語りかけるといったようなことである。如才なげな語り口のためにかえって間が抜けて見える仕組みだ。やがてダンサーたちもデタラメ語をしゃべり出すのだが、一人だけ口を開かない女がいる。この女は、一人離れて立つなど、初めのうち何となく他のダンサーたちになじめない様子を見せており、「なるほどそこに個人と社会の関係などといった意味が出てくるのだな」と思わせるのだが、気がつくとこの女もいつの間にか、さしたるきっかけもなく他の三人同様しゃべっていて、観客の期待は見事に肩すかしを食らうことになる。また、四人揃って何かを投げる動作をスローモーションで見せるなど、恐ろしく意味のないことをこの上なく誠実に格好良く遂行してみたりもする。
片方の手に何かを握り込み、どちらの手にあるかを相手に当てさせる遊びがあるが、京極は「意味」を持ち札にして観客との間でそのようなことをしている。だが京極の手は、実際にはどちらも空だ。京極は持ち札でなく、遊びの構造そのものを観客に差し出しているのだ。
伝えることの中には「伝えないことによって何かを伝える」ということも含まれる。それはダンスが何かを伝えたり伝えなかったりする事情とごく近いところにあるだろう。一見ふざけたカオスでしかないようではあっても、この作品の射程は意外に長いかもしれない。
(二〇一二年七月二八日昼、二九日昼 京都・アトリエ劇研)
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