昨日までの経験が少しずつ言葉になりかけてきたとき、こういった体験を言葉におさめてしまってよいものか?という疑問が湧き始めました。
今まで様々な公演に出演してきましたが、打ち上げの最後に、それぞれがそれぞれに豊かな言葉を抱えながら誰もしゃべらず、静かな時間が流れるような公演は数えるほどしかありません。
一日経って、まだ言葉にならないものは、もう感覚として保存する以外ない気がします。いまさら言葉で名づけてもきっと間違うから。昨日までの経験はまさにそういうものでした。
そのことに関連してもう一つ。
僕は今までダンスという分野に関わりながら、どうしても自分をダンサーと呼べないでいました。その訳は、ダンサーと呼ばれる人は踊る事を常とする人で、踊る事と生活することの間に境がない人のことであって、自分はそうじゃないと思っていたからです。
しかし、今回のことでいろんなことがブッ飛んでしまって、自分はもうダンサーでしかないと思いました。頭は良くないし、言葉も拙い。別にダンスがうまいわけではないけれど、恐らくダンスしかできない。そうして生きて行く時間が既に、自分の生活になっているのを実感しています。それは頭でというよりも体で。いまさら?というツッコミを自分で入れつつ。
そして今日も、というか今日こそ、どんな写真を載せたらいいのか、わからないありさま。
わたしは踊ることを常とする生活をおくっていますが、自分のことをダンサーとよべるようになったのは
返信削除二十数年踊ってきてやっとここ数年ですよ…
それまでは踊りしかできないことを自分が認めたくなかったからかなぁ…って思います
わたしも踊りしかできないって覚悟を決めてからダンサーになれたように思います