今日は以前から親しくさせてもらっている現代美術作家の方と「ご飯食べに行こー!」ってことで、同志社大学の寒梅館にあるCafeに行ってきました。
オシャレな割に値段が学食並みというすばらしいお店。学生には嬉しいですね。もう二人とも学生ではないですけど、学生気分を堪能してきました。
その後、稽古へ。ふと窓から見える風景に目がとまります。
ビルの間に挟まれた公園で遊びまわる子供たち。その動き、配置、テンションは、いつまででも見れてしまうから不思議です。ついつい見とれてしまいました。
「こんな作品が見てみたい」とも思いました。でもこうして写真で見るとなぜか子どもたちは窮屈そうです。「作品にする」ということと「無為」ということはやはり正反対の行為なんでしょうか?
写真に撮った時点で子供たちからは何かが失われてしまったようにも見えます。そんな事とは関係なく子どもたちはただ遊びまわり、疲れたら帰ります。
僕も稽古を終えたら帰ります。稽古場では何が積み重ねられ、何が失われていくでしょうか?積み重ねて行くものに触れながらも失われていくものに耳を傾けている。そんな状態をうまく保存できないだろうか?そんな考えはコソクだろうか?
などなど、考えつつ帰宅している途中にふと、アイデアが浮かぶ。食い下がる根性だけは、まだまだ失われていないようです。
0 件のコメント:
コメントを投稿