ということで今日は愛知の暑い男たち、afterimageを紹介します!
私が初めて彼らのパフォーマンスを見たのは、四、五年前。京都の小さなスタジオでした。血気盛んな男達が四人、プロレスとも思えるような激しいコンタクトを駆使し、決して洗練されない、野蛮な、しかしどこか憎めない20分程度の短いパフォーマンス。
そこで初めてafterimageという、実際の彼らのパフォーマンスとはかけ離れた爽やかな団体名と、私と同い年だという振付家、服部哲郎さんを知ることになったのです。
それ以来、服部さんとはWSで出会ったり、フランスのダンスの企画にダンサーとして起用されたという活躍を聞いたりと、直接、関わることはなかったけれど、お互いの存在は知っているという状態が二、三年続いていました。
そんな中、去年のKDC参加振付家、野村香子さんの作品に服部さんがダンサーとして参加することになり、直接話すようになり、afterimage結成十年という節目の作品上演の際には、名古屋まで駆けつける仲になったのでした。
そして今回、とうとうafterimageは、演出家のトリエユウスケさんと共に、KDCに新作を届けてくれます。
高校卒業の時点から団体を組み、10年という長い月日を経てきた彼らのパフォーマンスは、何とも言えない“味わい”を持っていると、私は思います。
“味わい”と表記したのには訳があります。それは作品的に洗練されているとか、技術が高いとか、新進気鋭という事とは別に、afterimageを見ることは、10年何かを続けた男たちを“味わう”時間であり、その“味わい”はまさに今、成熟の兆しを見せていると思うのです。
先日、初めて彼らのリハーサルにお邪魔させていただいた際の雰囲気は、完全に男子校ノリ。絶妙なボケと突っ込みのバランス。さすが10年と言わざるを得ないコミュニケーションに驚かされました。
どこか危なっかしく、突っ込みどころ満載と見せかけて、急に男気を見せたり見せなかったり。彼らはこうやって今まで作品を作ってきたのかと、その秘密を垣間見る気がしました。
彼らの特徴は振付家と演出家が分かれており、一つの作品を二つの視点で作り出しているという点です。これは日本のコンテンポラリーダンスの現場(特に若手)においてあまり見られない光景です。
今までの彼らの作品はどうやら振付家の服部さんが「こういうことをしたい!」という断片的なピースを作り、それを演出家のトリエさんが繋ぎ合わせ、実現化していくという作業をしてきたと言います。
しかし今回は演出家であるトリエさんが主題を提示し、振付家の服部さんがそれに基づいてピースを作っていくというスタイル。
私はこの環境は実に羨ましいなと思いました。稽古場に二つの目線があり、試行錯誤の幅を広げていること、そしてさらにはダンサーの堀江善弘さん、松竹亭ごみ箱さん(←こういうところが憎めない)が彼らを信頼して参加しているということ。それぞれがそれぞれの経験を持ちより、重ねていく事でafterimageは彼等でなくては成立しないものを目指しています。
しかし私は彼らに一つだけ、偉そうにも問いかけました。それは「afterimageとは何か?」という実にシンプルな事。
彼ら自身、10年の歳月、様々なことがあり、決して平たんな道ではなかったという事は容易に想像できます。
メンバーの話では「自分たちには一体、何が足りないのか?」そのことを様々な人に尋ねた事もあったと言います。しかし本当に必要なのは「何が足りないのか?」ではなく「何があるのか?」「我々には何がある」と言えるのかという事だと私は思うのです。
リハーサルの中で印象的だったのは、ある曲に合わせて服部さんが振付けた振りに対して、別の曲を当ててみたらどうなるか?という実験をしている際の事です。
「この曲だとafterimage的な動きになる」「afterimage的にこの曲はどうなんだろう?」
部外者の私にはわからない「afterimage的」という言葉が飛び交い、どうやらメンバーの共通認識として「afterimage的」な何かというものがあるようでした。
服部さんの振付の緻密さ、堀江さんのダンサーとしての技術力、松竹亭さんの存在感、そしてそんな男達の魅力を独特のユーモアを交え構成していくトリエさんの采配。それらが一体どこに向かい、何を目指しているのか?「afterimage的」とは一体、何なのか?それを思いっきり見せてほしい。と私は思いました。
今まで彼らは稽古場に人を呼んで見てもらう、という事をしてこなかったと言います。
だからこそこの「afterimage的」なるものは門外不出の概念であったのです。
しかし私のような部外者がひょっこり現れたことで、彼らの中で自分達でも本当のところよく見えていなかった「afterimage的」という言葉の意味が少しずつ露わになってきたのではないかと思います。
それは別に私が来たからという事ではなくafterimageが10年かけてそれを作り、それを公開することを選び、自ら勝ち得たチャンスなのだと思うのです。
常に新しいもの、新鮮なものが求められるのは、ダンスに限らず、どの業界にもある事です。既に名声を得たもの、定評のあるもの、安定したクオリティーが求められるのも当前のこと。
しかし私はその間にあるもの、これからどう変容していくのかわからないものにワクワクしたいとも思うのです。
私も京都に来て10年の年月が過ぎました。苦しい時期を越えそうなのか、まだまだその道は続くのか、全く分からない。そんな自分自身の道行のさ中に、同じ10年という年月を共に過ごしてきた彼らと出会いました。
afterimageとは何なのか?その問いはそのまま自分自身に返ってきます。「自分には何があるのか?」私も探さなければなりません。今回、私自身もこの問いに晒される機会を得た事、それは逆に私が勝ち得たチャンスでもありました。
だからこそ、この問いに彼らが如何に応えてくれるのかを、私は友人として、そしてライバルとして、誰よりも楽しみにしているのです。
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