2010/09/13

少し長めの自己反省

今日は新長田にあるダンスボックスへジョディのリハーサルに行ってきました。
神戸を超えて兵庫の隣にあるので京都からは遠い!のですが電車の道中が小旅行気分になれるので楽しいです。

今日のリハーサルでは衣裳を着て通し稽古をしました。気がつけば二週間のジョディの滞在期間も折り返し地点です。作品の全貌も明らかになってきました。

いや、しかし本当に勉強になります。ジョディの今日の名言は
「ただ踊って下さい。自動で首を振る扇風機のように」
中学生並みの直訳ですが、倒置法にした方が名言っぽいでしょ?

彼女の体の使い方はいたってクール。湿っぽい情動や説明的な物言いは一切排除。それでもそれらの断片から、ドラマが見えてくるのが不思議。

そしてここからは僕の考えですが、今回の『fanfare』という作品の初演には実際に扇風機を使った美術が使われていたということもあり、どうやらfanfareとfanがかかっているようです。

だとしたらタイトルが既に、華やかな、あるいは扇情的なダンスを扇風機の風のごとく冷やかに皮肉っているようにも思えます。あくまで個人的な深読みですが、ジョディ自身も「ただ形があるだけ」「ただフレーズがあるだけ」と繰り返します。

さらに僕が今日の通し稽古の映像を見返して思ったのは20分のデュオを“語る”その語り口です。
僕は今まで「ダンス」という方法で作品を作るとき20分という時間は短いと考えていました。それは観客としても、作り手としても。

何かが始まったからには終わらせるのが作品かなと思うのですが、いったん始まったモノの、終わりに説得力を持たせるためには、身体表現の場合20分だと足りない。
それやったら映像とか他のメディアにまかした方がいいと考えていました。

さらには30分過ぎたぐらいから他のメディアにはない身体表現の“勝ち目”が見えてくる気がしていたのですが、それって結局“語り口”の問題で、語る言語が変われば20分でも十分“勝ち目”はあるのだということを彼女の仕事を見て思いました。

ここで明らかになるのは自分の語り口の少なさ、拙さです。
「要はお前は45分の語り口しか持ってないんやろ」
「それしか語れないという己の稚拙さを“身体表現”のせいにするな」
ということです。

前に現代美術作家の高嶺格さんが作品を作るときに心がけていることとして現代美術という広大なジャンルの中で「何を扱うにしても、いつも、何が機能するかを考えている」という話をしてくれたことがありましたが、そう。20分の作品には20分の中で“機能”する言葉があるのです。

その“語り口”がカッコイイぜジョディ!
生のニンジンを皮だけむいて、丸かじりのジョディ!
NY生まれNY育ち、生粋のニューヨカージョディ!

そんな風にテンションが上がったり下がったりしながらも、彼女の仕事を間近で見られて、彼女の振付を踊る最初の日本人として、なんだかんだ興奮してます!

一回きりしかない本番を是非生でご覧ください!
http://www.db-dancebox.org/03_sc/1009_jdy/index.html 

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